高雄港駅の歴史

文/謝 明勳

陸と海をつないだ高雄港

かつて打狗港と呼ばれた高雄港は元々ラグーンで、周辺は漁村と塩田があるだけだった。1858年に清朝が諸外国と結んだ天津条約によって打狗が開港されるとそこで初めて外国勢力がなだれ込み、領事館や洋行などが設置され、国際貿易拠点としての機能を持つことになる。1895年に台湾を統治した日本は、植民地経営の円滑化を図るため、縦貫鉄道の建設と商業拠点である打狗港の築港を最重要政策として進めた。当時の台湾総督府鉄道部は縦貫鉄道南部線の建設のほか、打狗港の築港も請け負っていたのだが、その理由は、鉄道輸送と商業港の建設を一手に担うことで、陸上輸送と海上輸送を円滑につなぐシステムを構築しようと考えたためであり、打狗の鉄道と港は密接で強固な関係が築かれていたと言える。このような関係性は台湾の資源を搾取する一方で、工業と商業の発展に大きな影響を与えた。台湾南部で発展の重要性が叫ばれた製糖業では、新型の機器を投入する必要があり、これらの資材は当然のように大型輸送船で港に運ばれ、さらに貨車に載せられ現地へ送られ、組み立てられた。反対に、生産された砂糖は貨車で港へ運ばれ、船に積まれて出荷された。事実、1900年11月に縦貫鉄道の打狗−台南間が先行開業した際には、当時の台湾製糖が中間地点の橋仔頭で製糖工場の建設に取り掛かっている。

臨時打狗停車場は旧打狗駅故事館の北側800メートルの地点に建設され、1908年の縦貫線全通後もしばらくは運用されていたが、築港が進むと、現在駅舎が残る位置に移設された。操作場、扇型車庫、貯炭槽、旅客ホーム、跨線橋、駅舎などがあった。余談だが、縦貫線とは別に南側の埠頭へつながる浜線が建設されたのだが、「はません」という言葉は後に地名化し、現在でも「哈瑪星(ハマシン)」と呼ばれ、親しまれている。

打狗停車場を起点に、北は基隆に向かう縦貫線と屏東平原に向かう潮州線が伸び、さらに南側と東側には埠頭へ向かう専用線と側線があった。北部や屏東から運ばれた貨物は、ここで人力または機械によって船積みされ、船で運ばれてきた貨物は、逆にここで貨車に積み替えられた。ただ、実際には貨車などに対する投資が不十分で、集められた荷物が捌き切れず、運送を待つ貨物が港に文字通り山積みになる光景が、第二次世界大戦後まで度々見られたことを付け加えておきたい。

日本統治時代には貨物の陸上海上連絡輸送以外に、縦貫線の終点として、旅客の陸上海上連絡輸送の拠点的役割も担っていた。駅で連絡切符を1枚購入すれば、南洋方面の連絡船にそのまま乗り換えられた。第二次世界大戦後には苓雅寮13号埠頭が最前線の金門への玄関口となり、国軍の兵士たちが休暇や転線のために専用線に乗って上陸し、高雄港駅から各方面に向かう光景が見られた。

工業的性格を持った環状線

1908年の縦貫線全通後、鉄道と船舶の連絡によって哈瑪星や三塊厝一帯には浅野コンクリートや台湾煉瓦、製缶工場など台湾の工業発展黎明期の工場が操業し始めた。西臨港線が通った11号埠頭付近は、「台湾鉄工所」の跡地である。多くの製糖工場の設備や糖業鉄道の機関車などはここで製造され、貨車で出荷された。いわば台湾工業の発信源だった。

1920年以降になると、日本政府の南進政策に合わせ、高雄は「南進基地」としての役割を担うことになったのだが、地形的に旧市街地のさらなる発展は見込めない状態だったため、日本の内閣は1930年台湾総督府を通さずに「高雄市区都市改正」計画を打ち出した。その計画は、都市人口60万人を目標に、高雄駅を哈瑪星から現在の高雄駅がある大港への移転と、東京の山手線に似た環状線の構想を含んだ壮大なもので、この環状線構想は、移転後の高雄駅を中心に、裏側一帯を農地に、表側を商業地とし、さらにその南側を住宅地と文教エリアにした上で、南進基地化で最も重要な軍需工業や重工業は環状線の外側に配置される予定だった。

この高雄環状線構想は1941年の太平洋戦争勃発で未成に終わったのだが、戦後しばらく経って西と東の鉄道が「第一臨港線」として結ばれ、高雄に環状線が誕生した。高雄駅を出発すると両側に大規模な検車区や機関区が広がり、さらに鉄路新村と呼ばれた日本家屋の宿舎があった。列車は右に進路をとり、凱旋路に沿って南下すると、五塊厝の住宅街や学校、病院が多いエリアに出た。三多路を越えて籬子內へ抜けると、景観は一変する。住宅や商店はなくなり、台鉄高雄工場や硫酸鉄工場、205兵器工場、台湾中油、台湾製糖、台湾アルミ、台湾肥料、台湾電力南部火力発電所など、たくさんの工場が出現したのだ。多くの専用線が臨港線から分岐して工場内に入っていく。それはあたかも毛細血管が動脈から分かれていくようであり、臨港線の持つ工業的性格をはっきりと見せつけるものであった。

また、沿線にある工場の物資輸送のほかに、臨港線は別の一面も持ち合わせていた。それは台湾製糖の高雄駅との連絡だ。各地の製糖工場は「南北平行予備線」を使い、小型の汽車で商品を高雄に運び、台鉄の貨車に積み替えた上で現在の駁二藝文特區にあった台湾製糖の倉庫や埠頭に運ばれ、さらに船で国外に出荷されて外貨獲得の重要な手段となった。

1970年代には十大建設の中で重工業の重要地点となり、前鎮操車場から新たに第二臨港線と呼ばれる支線が引かれた。この支線は中山四路草衙エリアに沿って直接高雄港貨物センターと中国鋼鉄の工場地帯に入っていくもので、コンテナとばら積み貨物を迅速に中部や北部に輸送するため、1979年の西部幹線電化時には架線が高雄駅から前鎮まで敷設された。これにより、電気機関車が直接貨物を牽引して高雄駅を経由して北上できるようになり、台湾経済高度成長の初期段階で重要な貢献を果たしたと言える。

産業流出後の転換

台湾の労働市場の変化や環境保護政策の推進、グローバル化などの流れを受け、多くの重工業は1990年代から次第に海外へ流出し、高雄は特に大きな影響を受けた。工場は次々と閉鎖され、臨港線の貨物輸送量は急激に減少していったのだ。石油化学工場と重工業工場の相次ぐ閉鎖とトラックによるコンテナ輸送の増大により鉄道貨物輸送が打撃を受け、臨港線の線路と一部施設も廃止の憂き目にあった。

とはいうものの、1999年からは元宵節の時期に臨港線を時計回りに走る一般市民を乗せた莒光號または復興號が「ランタン鑑賞特別列車」として運行され、沿線に展示されたランタンを鑑賞できると人気を博したこともあった。また、2003年からは交通部が市政府の要望に応じて1億元の予算を投じて臨港線の安全設備の更新を実施してからは、台湾マクドナルドが委託運営で特別列車「嘟嘟火車」を仕立て、DR2900ディーゼル自強号による「おやつ列車」「食事列車」を運転した。これらの列車は臨港線を一周するもので、大方の予想に反して高雄港や市街地を遊覧する名物となり、臨港線が市民のレジャーや観光客が高雄への認識を深めるための観光路線となった。

しかし、13号埠頭が2006年に閉鎖されると、軍事物資の鉄道貨物輸送が終焉を迎えた。高雄市政府はこれに合わせて台鉄と西臨港線の廃止に向けた協議を始め、ウォーターシティ開発プロジェクトの一環として愛河河口の鉄橋にウッドデッキを設置し、市民の憩いの場にした。これにより、環状だった臨港線は切断され、「嘟嘟火車」も区間運行となり、ほどなく廃止された。

そして、高雄臨港線の最後の貨物列車は71、72号埠頭の遠東倉儲のばら積み穀物だった。臨港線では長きにわたってホッパ車が活躍する天国だったのだが、それも遂に終焉を迎えた。西臨港線の一部廃止後、ホッパ車は前鎮操車場に配備された。2008年に鉄道地下化工事が進展し、鼓山地区にまで工事が及ぶと、西臨港線唯一の出入り口も寸断される見通しとなり、高雄市政府が11月1日から9日まで「摩登風華、百年高雄」と題したイベントを実施。最終日の17時30分高雄港発の道路資材を積んだ有蓋車が最終列車となった。臨港線はこれをもって108年の歴史に幕を閉じ、広大な敷地はしばらくの間放置されることとなった。

しかしながら、2010年には変化が訪れる。高雄市政府が台鉄に対して高雄港駅の整備を申し出たのだ。10月24日には「打狗鉄道故事館」が開設された。毎年20万人の来訪者があり、敷地内には11両の鉄道車両が保存され、現在では哈瑪星地区のランドマークになっている。2013年には臨港線の廃線跡を利用した高雄LRT第1期区間が建設されたのだが、終点のC14哈瑪星駅は高雄港駅の第三、第四本線の上に設置され、1900年から続く「打狗駅」が再び駅としての機能を取り戻して、現在に至っている。